城崎温泉 王橋のれん会
トップページへ

 
●お宿・お店
旅館宿泊プラン一覧
のれん会旅館紹介一覧
のれん会お店紹介一覧
アクセスマップ
のれん会お問合せ先

 
●観光スポット
地元の人のみぞ知る?城崎の外側をご紹介。

 
●但馬図鑑
城崎を中心とした但馬地方のコラムです。

 
●王橋ログ
お宿・お店の主人の横顔がのぞけるかも?ブログ(日記)です。

 
●プレゼント
今月のプレゼント応募フォームはこちらです。

 
城崎温泉観光協会
城崎温泉観光協会


湯の町工房 城崎温泉旅館案内所
城崎温泉旅館協同組合


お宿とれとれ
城崎温泉お宿探し検索

 


但馬図鑑

志賀直哉『城の崎にて』と城崎温泉

 山手線の電車にはね飛ばされてけがをした、そのあと養生に、一人で但馬の城の崎温泉へ出かけた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に言われた。二三年で出なければあとは心配いらない、とにかく用心は肝心だからといわれて、それで来た。

 志賀直哉の短篇『城の崎にて』を読み始めた読者は、まず、「山の手線の電車にはね飛ばされた」というのに驚き、どうしてそんなことになったのか、「山の手線の電車」も今日のそれとはずいぶん様子が違ったのだろうな、などと考えるが、作者はこの事故には触れず、主人公の傷について簡単に説明しただけで、読者を「但馬の城の崎温泉」に連れて行く。
 「但馬」は兵庫県の北部、日本海側であり、「城の崎」(普通は「城崎」と表記される)は日本海に注ぐ円山川の河口近くに位置している。
 兵庫県に日本海側があるとは知らなかったという人は意外に多い。たが、そういう人も作家「志賀直哉」と作品『城の崎にて』の名をセットで記憶しているのは、学校で国語の試験に出ると言われ、暗記させられたからだろう。
 志賀直哉は後に『暗夜行路』 で、大山(鳥取県)に向かう主人公を同じ温泉に立ち寄らせるが、この長篇では「城の崎温泉」は「城崎温泉」と、普通の表記になっている。養生のため初めてこの温泉を訪れた作者が、その時のことを書いた短篇で温泉の名を「城崎」ではなく「城の崎」と記したのは、当時まだ全国的に知られるには至っていなかったこの温泉の名が「きのさき」であることをはっきりさせるためであったか。
 志賀直哉と城崎温泉との出会いについては、神戸新聞但馬総局編『城崎物語』が、温泉関係者による作者へのインタビューの内容を伝えている。
 それによると、作者が東京の病院を退院した後の療養地として遠い兵庫県の城崎を選んだのは、日露戦争の際にここに陸軍の傷病兵転地療養所が置かれたことを知っており、人の勧めもあったからだという。
 大正十二年(一九二三)十月一八日、開通して数年しか経っていない山陰線の列車で城崎駅に着いた志賀直哉は、駅前から人力車に乗り、車夫に「一番いい宿」を尋ねて「ゆとうや」に案内された。あいにく「ゆとうや」が前日の豪雨で浸水していたため別の宿に回ったが、そこは気に入らず、結局、三番目に行った「三木屋」に泊まることにしたという。
 その後、十数回にわたって城崎温泉を訪れる志賀直哉が定宿にした、この「三木屋」には、『暗夜行路』の主人公も一泊したことになっている。
 
 城崎では彼は三木屋というのに宿った。俥で見て来た町の如何にも温泉場らしい情緒が彼を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが町の真中を貫いている。その両側に千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、眺めは寧と曲輪の趣に近かった。又温泉場としては珍しく清潔な感じも彼を喜ばした。

 JR山陰線の電車を城崎駅で下りて、駅前の通りを北へ三百メートルばかり行くと、「高瀬川のような浅い流れ」にぶつかる。川の名は大谿川。確かに京都の高瀬川によく似ているが、川幅は高瀬川より広く、円山川との合流点に近いこの辺りでは十メートルはある。
 右岸(河口に向かって右手の岸)を川上に向かう。川端には柳の木が植えられ、石灯籠の形をした街灯がある。岸から階段を上って渡る石橋の下を青い小さな影が矢のように通り過ぎた。カワセミだ。
 王橋という道幅の広い橋のたもとに、もう少しで志賀直哉が泊まるはずだった「ゆとうや」がある。門から見えるのは庭の木立だけで、建物は見えない。
 王橋の次の橋を渡って、今度は左岸を、さらに上流へ向うと、道に沿って続く塀の上に木々の梢が伸びているのが目につく。
 ここが「三木屋」の裏手らしいと見当をつけて表へ回る。果たして「志賀直哉ゆかりの宿 三木屋」の看板があって、その向こうに堂々たる木造三階建がそびえている。道をはさんで反対側には、外湯(旅館の外に設けられている公衆浴場)の一つである「御所湯」があり、城崎温泉名物の外湯巡りを楽しむ客が出たり入ったりしている。
 『暗夜行路』には、宿に着いた主人公がさっそく「直ぐ前の御所の湯」に浸かるシーンがあるが、『城の崎にて』の方には、温泉のことはまったく出てこない。
 『城の崎にて』の末尾には、「三週間いて、自分はここを去った」とある。温泉に養生に来ていたのだから、もちろん湯には毎日浸かっただろうし、三週間も滞在するうちには宿の人や町の人ともそれなりの交渉があっただろうと思われるが、その類のことは、この小説には一言も書かれていない。「読むか書くか、ぼんやりと部屋の前の椅子に腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮らしていた」という主人公は、この土地の湯にも人にも関心を向けていないのである。
 視線を「御所湯」の入口から「三木屋」の木造三階建に戻そう。
 主人公の滞在していた部屋は、この建物の二階にあった。玄関の屋根に近いガラス戸の向こうには主人公が腰かけた「部屋の前の椅子」が今もあるのだろうが、下から見上げたのではよくわからない。
 この椅子は玄関の屋根を間近に見る位置にあって、屋根の脇に巣を造っているらしい蜂の動きを、そこからよく見ていた主人公は、ある朝、一匹の蜂が屋根に死んでいるのを見つける。それは三日ほどそのままになっていた。「冷たい瓦の上に一つ残った死骸を見ることは寂しかった。しかし、それはいかにも静かだった。」
 蜂の死骸に重ねるようにして主人公が見つめているのは、危うく事故で死ぬところだった自分であり、もしかすると「脊椎カリエス」になって死ぬかもしれない自分、それを免れたとしていずれは死ぬに違いない自分である。
 そうした主人公の心のあり方は、散歩をしている時も変わらない。円山川や日本海の見える東山公園に足を向けた、ある日の散歩では、魚串を首の所に刺し通されて川に投げ込まれたねずみが人々に石を投げつけられ、逃げ回っているのを見かけ、ねずみの姿に自分を重ね合わせる。「今自分にあのねずみのような事が起こったら自分はどうするだろう。」
 
 そんな事があって、またしばらくして、ある夕方町から小川に添うて一人だんだん上へ歩いていった。山陰線のトンネルの前で線路を越すと道幅が狭くなって道も急になる、流れも同様に急になって、人家も全く見えなくなった。もう帰ろうと思いながら、あの見える所までというふうに角を一つ一つ先へ先へと歩いて行った。

この散歩で主人公がたどった道幅は、今では自動車が擦れ違える舗装道路になっている。この道を上っていくと「志賀直哉(城の崎にて)ゆかりの桑の木」と記された金属製の大きな案内板が現れた。
 これがそれらしいと見当をつけた木の傍らの説明板には、「大きな桑の木が道ばたにある」うんぬんと『城の崎にて』の一節が引用され、「この桑の木は二代目であります」という断り書きの後に、「旅館から大谿川に沿ってこの辺までが、直哉の散策のコースであり、名作を生んだ舞台であった」とある。
 主人公はこの桑の木の前にしばらく立ち止まった後、さらにかなり先まで行ったようだ。
 
 だんだん薄暗くなって来た。いつまで行っても、先の角はあった。もうここらで引きかえそうと思った。自分は何げなくわきの流れを見た。向こう側の斜めに水から出ている半畳敷きほどの石に黒い小さいものがいた。いもりだ。

 このいもりは、主人公が「いもりを驚かして水へ入れよう」と思って投げた石に当たって死んでしまう。不運ないもりが死んだ場所を示す案内板はない。


(この文章は、Z会首都圏教室の受講者向け情報誌に連載した「ヒマジンガーZの はじめにことばある(歩)き 名作の現場へ」シリーズの記事に手を加えたものです。Z会は、テリー伊藤を使った広告でお馴染みの教育産業です。)

発行者 岡田寿彦
〒211-0024川崎市中原区西加瀬210の123
〒669-5361兵庫県城崎郡日高町栗山111
 

Copyright©2005 kinosaki-onsen OUHASHI-NOREN. All Rights Reserved.